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インドネシア人の元慰安婦の初めての告白

これはインドネシアに住む元慰安婦の物語を記述した新聞 Jakarta Globeの記事である。インドネシアは前スハルト政権の下ではこのような話は国辱ものとして話せなかった。又元慰安婦の人も慰安婦の体験はその後も心の傷となり思い出したくもなかったがオランダ記者のビルジャンセンと写真家のジャンバニングの努力によって重い口を初めて開く事ができた。

 

これがその全文の訳です。

インドネシア人の元慰安婦の初めての告白

2010年8月18日 カトリンフィジ報告

13才になるロナシーは学校から帰る途中あだ名がサイドバーンズという兵隊にトラックに乗せられて近くの兵舎に運ばれドアに鍵をかけられた。
そこで彼女は3ヶ月間サイドバーンズと彼の友達に何回も強姦された。

これは西ジャバ セランガに住むロナシーの話だけど他にも第二次世界大戦中彼女のような暴力的性行為の犠牲になったインドネシア人の婦女子は多数いる。

彼女等は日本軍の兵隊に強制的に売春婦にされたり繰り返し強姦、性的虐待が倉庫の中や汽車の貨車の中、時には彼等の家の中でも行われた。

これは少しの人間しかおおやけに語ることができない歴史の暗い一章である。

彼女達、慰安婦又は従軍慰安婦と呼ばれた人達は不名誉、恥辱を今でも感じている。

彼女の父親は兵舎を娘を返してもらおうと何度も訪ねてきたが却って娘の返還は彼の無償の労働が条件だとと言ってただで働かせられました。ただしロナシーが帰ることができたのは戦争後で体はやせ細っていました。”体中が痛くて歩けないので這って家に辿り着きました。”

戦争の後すぐに内部疾患の手術をしました。”はじめは体が回復しないと畏れ体が回復する迄待ってたので結婚は随分後になりました”

彼女は5回結婚したが子供はできなかった。”私は体に注射もしてもらいましたが、子供は神様が与えるもので人ではないと思いますから”

彼女の物語は今オランダの記者のヒルダジャンセンと写真家のジャンバニング主催の南ジャカルタのイラスマスで開催中の従軍慰安婦写真展に展示されています。

ジャンセンとバニングは沈黙を守っていた元慰安婦だった人に話を聞き録音するためインドネシアに来た。

展示会はその仕事の一環で18人の顔写真、彼女達の年齢は70後半から80前半、彼女等の物語を綴ったノートを添えてある。

又オランダの書庫で見つけた日本の戦争のプロパガンダのポスターも展示している。このポスターはその横に並んだ彼女達、体験談を滅多にしない、の写真と対象的だ。

加えてジャンセンとバニングは”恥と無邪気さ”:苦しんだインドネシアの慰安婦の記録”という本の英語版とオランダ語版を最近発行した

又バニングは元慰安婦の写真集も創った。

”醜い女に見えることをなんと願ったことか、醜い女はすぐに返されたけど可愛い子は残らなければならなかった”。これらの言葉は西ジャバ クニンガンから来たエマという婦人の写真に添えられていた物語の中からである。

写真は黒のブラウスを着て紫色の花を手にした年老いた女の人が写っていた。寄せ皺が厳粛な顔をつくっていた

エマは結婚することは出来たが遂に子供ができなかった。

添えられた彼女の体験談を語るノ-トがなくても心に受けた傷と悲しみが写真の中にある彼女が語りかけてくる。

ジャンセンはこの仕事は簡単ではないと言う。まず元慰安婦を探すのが困難で居場所がわかっても、ほとんどの者は慰安婦の体験談をしたがらない。また元慰安婦のほとんどは既に亡くなっている。

私達はまだ恥辱心など心の傷を抱えた彼女達を慎重に扱わなければならなかった。彼女達は強姦という言葉を使うのにはためらいがちで照れ隠し笑いをしながら強引な性行為とか単にやられたとか言う言葉を使っていた。

現在80才になった彼女達でも時々今でも侮蔑を含んだ薄笑いされる場合がある。

彼女達は太平洋戦争の思いをできるだけ忘れたくても、軽蔑の眼、心の傷み、子供の出来ない人生、失敗した結婚生活が彼女達にまとわりついて忘れさせない。

彼女達にとって慰安婦の体験は思い出したくない話だけどジャンセンは公けにすることはやはり正しい事だと思った。

この人達は肉体的、心理的に受けた障害と今でも葛藤しているにも関わらずそれを起こした日本人達は今は普通の生活をしている。沈黙の壁は壊れて彼女達の声はもう抑えつけることは出来ない。

女性の対する暴力の国立協会の会長ユニユンテさんがこの展示会を開催しこの問題にもっとこの問題に人の関心を向ける時がきたという意見に同意した。

この写真の中のイメージが与えた大きな功績は彼女達が過去60年間苦しめてきた性的暴力の個人体験を分かち合える勇気を持ったことだ。

彼女達の声は正式な謝罪と賠償金を要求するだけでなく又将来の女性達がこのような性的暴力の犠牲者にならないようにすることである。

バニングによると慰安婦の数はアジア全体で200,000人,インドネシアだけで20,000人いる。彼は前にも似たようなプロジェクト、戦争中のビルマとスマトラ鉄道の強制労働に苦役された男達、を扱ったことがある。

ほとんどの男達は口が硬かった、彼等にとっては嫌悪感と恥ずべき体験だった。

彼は慰安婦の体験も同じような切ない気持ちが、いやそれ以上だったと付け加えた。実際はオランダの慰安婦の事もこのプロジェクトに含めた。オランダの慰安婦は200から400人居るはずだがあらわれたのは数えるほどだった。

ユニユンテさんは慰安婦の物語はこの国を形成してきた要因の一つだと言う。インドネシア独立の話の最も重要な時を担っただけでなく、慰安婦に関連した案件は今でも適当な問題である。前の政府(スハルト政権)の行政で問題のある案件は秘密にしたりもみ消されしたのは明らかである。
 
国の評判を汚すので慰安婦の話は隠されていた。女性への性的暴力に関しては過去40年に渡り似たようなことが起きていた。
 
1998年の5月に起きた事件で中国系の女性は集団強姦、性的暴力の犠牲になったが今迄無視されてきたとユニユンテさんは語る。
 
1998年の事件がインドネシアの民主主義運動の起こりと自慢する陰で、1998年5月の事件はただの暴動だとか子供を失った悲しみを抱える母親や国の評判を下げるのかの非難を恐れるため個人の経験を話せない女性達に関心を向けなかった。
 
性的暴力の犠牲になった女性は彼女達の家族や社会に沈黙されてしまう。彼女達は身の安全と女としての罪の恥ずかしさと不名誉な評判を避ける為黙っている。
 
この女性達がこのような行為によって受けた肉体的、精神的な苦痛は決して拭えないが彼女達の物語は語られるべきだ。
 
私達は私達の為にだけ生きているのではない。私達は私達の出来る限りで社会に尽くすべきであるとバニングは言う。だからこの物語を世間に聞かせるのである。
 
  以上