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真珠湾攻撃:ハワイでは驚いたがフランクリンルーズベルトにはそうでなかった

今年は終戦を向かえて70年になるが面白い記事をNew American ジャーナルで見つけたので紹介します。前に真珠湾攻撃はアメリカの仕組んだ陰謀という話しを聞いた事がありますがこの記事を読む迄は信じませんでした。これは証拠と証言を1つ1つ説明しながら結論に導いてくれます。

日本は国力と戦力の劣勢ながら1つの勝機を真珠湾攻撃にかけて主力の米国太平洋艦隊に大きなダメージを加え

アメリカ国民の戦気を砕くはずでした。しかしこれはアメリカのかけた罠で日本は見事にその罠にかかりアメリカの参戦を促した、太平洋戦争は戦う前から既に結果はわかっていた戦争なわけです。

 

I found a interesting article in a journal New Americans while it is 70 years since Pacific War ended. A few years ago I  heard Pearl Harbor attack was a conspracy plotted by America , but I did not belived untill this article is read.The article articulates evidences and witness accounts one by one and leads to a conclusion.

   

Despite Japan's national resources and war capacity lacks  thats of America ,Japan committed Pearl Harbor attack to inflict significant damage to Pacific Fleet of U.S main forces and shatter American's fighting sprit.

However it was a trap America set against Japan and she was spetacularly caught and ended up in helping America to participate the war, it seems to me Pacific War was saga with foregone conclusion before the war broke out.

 

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 真珠湾攻撃:ハワイでは驚いたがフランクリンルーズベルトにはそうでなかった

 

  12月7日 2014年 

   ジェームスパーロフ(James Perloff)

 

1941年の12月7日、日曜日日本は真珠湾に停泊中の太平洋艦隊に不意打攻撃した。ハワイの静かで美しい平和な朝は破られ、数十隻の艦は破壊され燃え上がっていた。

日本軍がこの日に真珠湾攻撃で与えた被害は駆逐艦18隻、8隻の戦艦を含む、撃沈又は破損、戦闘機が188機、加えて2000人の戦闘員が死んだ、被害が大きくなったのはハワイの司令官がこの攻撃を全く予期していなかったからである。しかしワシントンは事情が違っていた。

 

後の詳細な調査によればワシントンは真珠湾攻撃を予知していただけでなく米国がこの第二次世界大戦に参加できるようにハワイの司令官に情報が渡らないようにしていた。

英国の工業大臣のオリバーレイトンは1944年に「日本は真珠湾攻撃をするように仕掛けられた。米国が戦争に無理やり巻きこまれたというのは歴史の史実を歪めている。」と語っている。

 

ルーズベルトは直接戦争に参加したかったが、彼の心は公式の場での彼の言葉とあまりにも掛け離れていた。戦前のギャロップ調査によると88%の国民がヨーロッパの戦争に巻きこまれる事に反対していた。

米国民は第一次世界大戦の参加がよりよい社会を創ったわけではなく又ルーズベルトのの1940年の大統領選挙の年の演説で「過去に何回も言ってきたが、何度も何度も繰り返していう他国の戦争には我が国の若者は決して送らない」と言っていた。

 

 しかし大統領本人はこれと反対の行動をしていた。ルーズベルトは側近のハリーホプキンスを英国首相のチャーチルと会うため1941年の1月に派遣していた。この時ホプキンスは

 チャーチルに「大統領は我々(U.S.Aと英国)は力を会わせてこの戦争に勝利すると誓いました、私の言葉を信用してくれ。大統領はこれを約束するため私をここへ送った。何が彼の身に起きても

 出来る限り我々は一体だ」ウイリアムステーブンソンは著書”A Man Called Interpid”のなかで述べているー米国と英国の防衛スタッフが会合がその月から始められ”極秘事項”と定められた。”極秘事項”の

 意味は”米国民に知らぜられるべきこと” 。大統領の友達で大統領の伝記を書いたロバートシャーウッドでさえこう述べている「もし米国と英国の同盟が不干渉派に知れたら大統領弾劾の要求が落雷の響きのように

 アメリカ中に轟き渡っただろう」

 

 裏切りの背景

 

ルーズベルトの本心はロンドンのアメリカ大使館に勤務していたテイラーケントが1940年にルーズベルトとチャーチルが交換した覚え書きを盗み読みした時にわかった。

これらはFDR(フランクリンルーズベルトの略)が大統領選挙の公約に反して戦争に参加する意志を示していた。ケントはこれらの覚え書きを大使館から持ち出し大衆に知らせようと思ってた。しかし彼は逮捕され英国の機密裁判にかけられ英国の留置所に戦後迄拘束されていた。

 

第二次大戦の初期米国はドイツに対しいろいろな挑発をしていたー資産凍結、50隻の駆逐艦の英国への提供、Uボート攻撃の機雷の英国への提供。しかしドイツは挑発にのってこなかった。米国が第一次大戦に加わってから戦況はドイツ側に不利になった事を憶えていてドイツは同じ間違いは繰り返したくなかった。だからFDRは矛先を日本に向けた。日本はドイツ、イタリアと軍事同盟(三国同盟)を批准していた。ルーズベルトはもし日本がアメリカと戦端を開けばドイツとイタリアはアメリカに宣戦布告を行わなければならないだろうーそしてアメリカをヨーロッパの戦闘に裏口から参加することができるだろうと目論でいた。内務省の長官のハロルドアイクは1941年の10月に語っている「私は日本を使って戦争に参加するのが最上の道だろうとずっと思っていた」

 

最近のWW2(第二次世界大戦の略)の時海軍の将校だったロバートスチンネットの努力で真珠湾攻撃の新しい視点が日の目に晒された。スティンネットは色々な文献資料を情報公開法で取得した。

”欺瞞の日:FDRと真珠湾の真実”(2000)、この本は編集長のブラックミアーは素っ気なく無視した。FDRが日本を挑発しようと計画は極東海軍諜報機関長で大佐のアーサーマッカラムと覚え書きを交換した時からたて始めた。覚え書きには日本から米国に戦争を仕掛ける8つの案について述べられていた。「日本はこれらの方法によって怒って戦争を始めるだろう、むきになればなるほどこちらの思うつぼだ」とスチィンネットは言った。FDRはマッカラムの挙げた8つとさらに付け加えた挑発の案をすぐに実行にうつした。

 

この頃日本の好戦的な行動は誰も認めるところだが我が国も色々な方法で日本を挑発したー米国内における日本の資産の凍結、日本の貨物船に対してパナマ運河封鎖、段階的な輸出品目の統制、そして英国が既に実施していた禁輸、東京政府がアジアで行っている方針を改めなければ武力行使もあり得ると言ったような敵愾心を煽った覚え書きを日本大使に送ったりー遂に真珠湾の11日前の11月26日に決定的な覚え書きを送った、米国との貿易を再開する条件として日本軍を中国とインドシナ半島から引き上げドイツとイタリアと結んでいる三国同盟の廃棄を要求した。 

 

10月16日1941年の大統領ルーズベルトとの会談の後、戦争大臣のヘンリースチィムソンは彼の日記にこう記してある:「日本から積極的に不正義な戦争を仕掛けたる事を確実にするため我々は微妙でかつ繊細な外交をしなければならない」。11月25日のスチィムソンの日記、最後の覚え書きを送った1日前、には「問題はいかに彼等(日本)に最初の弾丸を撃たせるように追い込むことだ」。

 

日本への誘いの餌は太平洋艦隊だ。海軍司令長官のジェームスリチャードソンは太平洋艦隊を通常の米国西海岸でなくハワイに常駐させる計画に反対するためワシントンに抗議した。司令長官の反対する理由は至極当然だ:真珠湾は何処の方向からも攻撃しやされやすい、防御網を湾に沈めて魚雷艇からの魚雷による攻撃から防ぎにくい、ハワイには訓練された戦闘乗務員が少ないので船舶の利用が難しい。加えて真珠湾には必要な燃料も不足しているし艦の保全修理を行うドックが不足している。又戦闘員は本国から離れて任務しなければならないので戦意を長期間保ちにくい。大統領との議論は白熱し、彼は「大統領のいつも主張しているのに関わらずもし英国が大統領再選迄持ちこたえれば米国は戦争に参加する強い意志を持った印象を受けた」と語っている。

 

リチャードソンはこの後即座に解任された。後任の司令長官キメルハズバンドもルーズベルトに真珠湾の弱点を報告したが、彼はワシントンが真珠湾攻撃に関する極秘情報を知らせてくれることを信じて艦隊を真珠湾に停泊することを承諾した。しかしキメルも陸軍の司令長官ウオルターショートもワシントンの日本の攻撃を監視する情報網からは完全に外された。

 

 筒抜けの情報

 

我が国の政府が日本の出方を予測するのに最も重要な点は日本の外交に情報交換に使われる時の暗号の”パープル”(紫)を解読できたことだ。東京政府はこのパープル暗号をワシントンやハワイを含む大使館、領事館との通信に使用していた。暗号は非常に複雑なので暗号を解くのに機械を使わなければならなかった。1940年にアメリカで極秘情報担当の優秀なグループが暗号の解読方法を解明し日本の複写機を改造して暗号の解読に使った。これらを海軍、戦略省の極秘情報担当部門で使用し日本の外交情報はすべて解読された。暗号解読機は”マジック”と名付けられた。

 

”マジックによって解読されたメモは鍵のかかった袋に入れられ直ちに大統領、外務大臣、海軍と陸軍関係者に届けられた。これらの情報は又陸軍大臣、ジョージマーシャル将軍、海軍大臣のハロルドスタークに送られ3台の暗号解読機は英国に送られたが真珠湾には一台も設置されなかった。ホノルル領事館と東京のメッセージはワシントンに送られそこで暗号解読された。ハワイ担当のキメルとショート長官そしてハワイの司令部はワシントンからの連絡を待たなければならなっかた。暗号機を設置する要求は外交関係の情報は兵士には必要ないとの理由で却下された。

 

これがいかに馬鹿げた理由だということが1941年の10月6日に日本の戦略計画部門が東京とホノルル間で交わされたテレックスでハワイ領事館長に真珠湾を5つの格子に分け米国艦隊の位置を教えるように要求していたことを見てもわかるだろう。

 

諜報員が艦船の動きを監視しているのは何も不思議ではない、しかし艦船が停泊している正確なドックの位置を尋ねているのはたった1つの理由からである。諜報機関長であるチャールズウイルビーとダグラスマッカーサーは後にこう述べている「真珠湾の中を格子状にわけ米国の戦闘員の位置を格子に分けて報告するのは典型的な攻撃の的を絞る方法で我々の戦艦が突然標的になった」、この情報はキメルとショートには知らされなかった。

 

この他にも数々の通信が盗聴されワシントンに送られその日のうちに解読された。(1941年)

 

 115日 東京政府はワシントンの日本大使に米国との交渉の期限は1125日だと

 

 1111日 状況は差し迫っている、時間がないと彼等(日本側)は警告した

 

 1116  交渉の期限を1129日に延期、送信元は期限は絶対にこれが最後でこの後は状況にまかせるしかない

 

 1129 (米国は決定的な覚え書きを既に受けていた) 交渉決裂は必然と大使は知らされたが日本の指導者は決裂した印象を米国側に与えるなと

 

 1130日 東京政府はベルリンのドイツ領事館に戦争勃発は皆が期待したより早くなるだろう

 

 121日 米国の疑惑を惑わす為期限は又延長された、新聞その他にはまだ交渉は続行していると

 

 121日~2日 ドイツ、イタリア以外の日本大使館、領事館に極秘資料の廃棄と1つの暗号コードを残して破壊する事(理由は簡単だ、戦争が始まった時に大使館等の治外法権がなくなるのでそれまでの通信に

 この暗号コードを使わなければならないから)

 

さらに新しい警告が、ニックネームの”風”にのって送られてきた。11月18日に盗聴したメッセージにはもし米国との交渉が決裂した時はラジオにメッセージを流す。

このメッセージは暗号解読器のない領事館や諜報機関以外の者に対してなので”パープル”暗号は使用しない。メーッセージは天気予報に含まれ”東の風、雨”、”東の風”は米国を意味し”雨”外交交渉の決裂を意味するーつまり戦争開始だ。

 

予兆のメッセージにこれほど明白なものはなく米国のラジオ放送は常時監視され海軍は特別にカードに書いて憶えるようにした。12月4日には海軍は”東の風、雨”を実際に放送中に聞きワシントンの諜報局も聞いた。

 

1894年から日本は3回外交関係の打ち切りと同時に不意打ちをかけている。ルーズベルトはこれは憶えており、スチィムソンの日記には「11月25日のホワイトハウスの会議時FDRは日本は不意打ちの常習犯で、例えば次の月曜日に攻撃されるかも知れない」。ワシントンの防衛大学を卒業したベテラン士官達は皆このことを知っていた。

 

ワシントンは外交メーッセージだけを解読するだけでなく又海軍の情報も解読していたとロバートスチィネルは暴露した。ルーズベルト大統領は日本を戦争に引き込む8つの案を許可したマックラム中尉を通して解読メッセージを取得できた。この海軍の暗号解読のことは長く秘密にされその存在さえも十回開かれた真珠湾攻撃査問会でも暴露されず、1995年の小委員会でもわからなかった。今でもスチィネットの真珠湾に関するほとんどの情報は公開情報権の下でも読む事ができない。

 

日本では真珠湾が攻撃目標になる可能性は長期間に亘って考えられていたので、ラジオ無線は使われていなかったと信じられていたが、これは真実ではない。艦船の行動は慎重とは思われずまして沈黙を守っていたことはない。現に海軍の諜報員は何度も情報を聞き解析していた。その中には真珠湾が狙われていると推測できるものもいくつかあった。特筆すべきものは艦隊指令長官の山本五十六が第1艦隊に

 1941年11月26日に送ったものである。

   

    艦隊はその動きを秘密に他に知られなく空母と潜水艦(米国の)を監視しハワイに向け舵をとる。敵対関係が    確立した時は直ちに米国の主力艦隊を攻撃し敵の戦意を消失させるべき。

    最初の航空爆撃はXデイの早朝を予定、正確な時間は後の命令で通告ー(注)日本時間の11月26日(11    月25日)午前6時南雲中将指揮の機動部隊が千島単冠湾よりハワイにむけて出撃した

 

日本海軍から送られたメッセージの解読には厳重な機密扱いされたので誰が解読したのかこれらはマッカラム又は大統領は目にしたのかは定かでない。しかしながらメッセージの重要性は否定しようがない。

 

 1941年中に下の情報が交換された

 

 1月27日 日本大使のジョセフグルーからワシントン:「私の局員がペルーの大臣から聞いた事だが日本人を含む 様々な関連筋が、もし日本と米国の間で戦争が起きれば真珠湾を国体の総てをかけて攻撃するだろう

 

 11月3日 グルーから国務長官のコーデルハルへ同じ消息筋から聞いた事:「米国との戦争は劇的に突然はじまる だろう」彼はさらにこの警告を11月17日に強調したメッセージをハルに送った

        

       マーチィンダイ議員のメモから; 

 

1941年の初め日本の真珠湾攻撃の意志を証明する地図をダイ委員会が入手した。この戦略的地図は日本帝国諜報員によって作成されたものである。私は直ちにハル長官に地図を入手した事を告げた。

彼は地図のことは秘密にしすぐ大統領に話した後私に電話すると告げた。 約1時間後ハル長官から電話があり、大統領に話したこととこれが報道機関に漏れたら大騒ぎになるということで同意したと。私もこのことは国民に知らせるべきでないと述べ、長官と大統領、国の防衛に不可欠用件であると….

  

 ダスコ ポポブはユーゴスラビア人でドイツと英国の二重スパイだ。彼の忠誠は連合国側だ。1941年の夏ナチス はポポブにハワイの真珠湾の地形、近くの飛行場の調査を命じた。彼は日本の真珠湾攻撃の計画の為と推測し詳細な 報告書を作り8月にニューヨークにあるFBIに提出した。J 後にエドガーフーバーは苦々しくこの 時のことを語っ ている、真珠湾攻撃の警告をFDRに知らせたが、FDRはこの事はここだけに留め置きと言い大統領の手に握り潰し た。

 

 中韓人民協会のキルソーハンは地下組織グループの韓国人から日本がクリスマスの前にハワイを攻撃を計画している との確かな情報を得たことを聞いた。11月に国防省から返事がないのに痺れを切らしてハンはアイオワ議員の、

 ガイジレットに情報の重要性を説明した。ジレットは大統領にこの情報を要約して説明したが事務的に感謝した検討 してみると言っただけだった。

 

 インドネシアのジャワでは12月の初めにオランダ軍が東京からタイのバンコクの大使館へのメッセージの解読に成功 しメッセージにはハワイを含む4カ所の攻撃の計画が含まれていた。オランダは情報を米国軍監査員のエリオット  ソープ少佐に知らせた。ソープはワシントンに4つの警告を送った。最後のメッセージはマーシャル提督の情報担当 の主任に送られた。ソープは提督からこのメッセージはもう送るなと指示された。

 又オランダは米国に軍派遣員のウエイン大佐がマーシャル提督に直接伝えた。

 

 米国陸軍勲功賞を受けたワシントン駐在のオランダの海軍派遣員のヨハンレネットは詳細な記録を彼の日記に残して いる。彼は12月2日に海軍諜報員局を訪れている(ONI).レネットが太平洋側の状態を尋ねると

 米軍の将校が地図をさして「日本の海軍の艦隊は東を目指してここを通過中である」、彼の指図したところは日本と ハワイの中間地点であり、12月6日に彼は再び局を訪れ日本海軍の位置を尋ねたら将校は真珠湾から

 北西へ300-400マイルの地点である。「こんなところで日本の航空母艦は何をしているのだと尋ねたら多分米 国が日本の攻撃に対して反撃を促す報告書と関係あるのではと…」、ホノルルはこのONIと同様に皆100%警戒し ている筈だからそんなことはないだろうと思った。

 

 11月29日、国務長官ハルはフリーランス新聞記者のジュセフレイと密かに会った。レイは前にホワイトハウスで ルーズベルト大統領のもとで働いていたことがありハルの最も信用をおいている記者である。

 国務長官は真珠湾に関して日本の交信を盗聴した写しを渡した。彼は言った「日本はハワイを攻撃しようと計画して いる、そしてFDRはそれを見て見ぬふりをしようと思っている」。ハルはレイに彼の名を省き新聞に大々的に載せ

 貰いたいと思ってた。

 

 レイは急遽彼の友達でありユナイテッドプレスのワシントン支局長であるライルウィルソンの事務所に走った。ハル 長官の名前は隠して、詳細を話し盗聴文を見せた。ウイルソンは話しは信じられず新聞に載せることは拒んだ。知り 合いを頼んだがやっとUPの外信に急ぎの文を打つことが出来たがたった1つの新聞だけがその一部を載せることが できただけだった。

 

 真珠湾攻撃の後、ライルウイルソンはレイをよびたった今発表されたルーズベルトの”汚辱の一日”の演説文を見せ  た。二人は共に男泣きした。彼の回顧録は”真珠湾の生け贄”という題で歴史チャンネルのドキュメンタリーで放送

 れた。

 

 これまで挙げてきたのは米国が真珠湾攻撃を前もって知っていた1部の例である。この他にもピューリッツア賞受賞 のジョントーランドの”Infamy:Perl Harbour and Its Aftermath”、ロバートスチィネットの”Day of Deceit:  The Truth about Perl Harbour”がある。この事、真珠湾攻撃、が確かなことはジョージマーシャッル司令長官 が1941年の11月に個人的な記者会見で「日本とアメリカは12月の最初の10日間

 以内に交戦状態に入るだろう」と自信たっぷりに言っていたことだ。

 

 しかしながらこれらの情報はグリュー大使に1月危機の警告が、しかも二月1日に届いた、以外はハワイのキメルと ショート司令長官には伝えられなかった。不安を除く為マッカラム中尉が、彼は最初に日本による米国攻撃を画作し た、キメルに「海軍の諜報員によるとこれらの噂はデマであり、さらに手に入った情報によると今のところ日本陸  軍、海軍によるハワイへの攻撃の計画は現在も近い将来も起こる兆候が見えない」とキメルに送信している。

 

 攻撃の標的

 

 日本の攻撃を成功させる為にはー米国がこの戦争に確実に参戦できるにはーキメルとショート将軍を機密情報を知ら せない事が鍵である。しかしワシントンはさらに日本の攻撃を確実にする為の工作をした。

 

 11月25日日本の攻撃艦隊がハワイにむけて出港した約1時間後、米国海軍は自国と同盟国の船舶が北太平洋を航 行を禁止する命令をだした。総ての太平洋横断する船舶は南太平洋を通過させた。この命令は米国西海岸に停泊中の ロシアの船舶にも守らせた。この命令の目的は容易に推測できる。航海中の商船が偶然に日本艦隊を見かけたらすぐ に真珠湾に知らせる恐れがあるからだ。海軍少将であり1941年には海軍の戦略将校のリッチモンド.K.ターナーは 率直に述べている、「戦争直前には船舶の航路を変えさせ、総ての船舶をトーレス海峡から迂回させ、日本艦隊の航 路には誰も近よさせなかった」

 

 ハワイの司令長官は日本の船舶が島に近づくことを見逃した罪で罰せられてる。実のところはワシントンが監視する 機能を与えなかったからという事は知られていない。陸上で行進していく軍隊は容易に発見できる。

 しかしハワイは太平洋の真ん中だ。島に近づくに障害はないし邪魔するものもない。12月7日の1週間前、海軍の 偵察機は洋上200万マイル以上飛行したが日本艦隊は発見できなかった。何故ならキメルとショート将軍が持って いる偵察機の数では360度の3分の1しかカバー出来なかったし、情報機関から南西の方向を集中するように教え られていた。

 

 レーダーの数も足りなかった。又偵察専門のパイロットの数も不足していた。ほとんどの偵察機は古くて交換部品が 不足していた。司令長官の再三の偵察機取得の要求は却下された。真珠湾に任務していて”そして私はそこにいた”の 著者の海軍少将のエドワード.T.レイトンは言う「地元の司令官が機密情報機関からは日本によるハワイ攻撃のヒント さえ聞いた事はなかった。我々の空からの防御は陸軍の主任将校自身の命令により完全に外された。12機のB-1 7の内6機しか使用できず、残りは交換部品にあてられた。」

 

 海軍は国際関係がきな臭くなってきた時洋上に艦船を待機させる規則があり、キメル将軍はまさにこれを実行したー キメルは日米関係が危うくなってきたのを察し、1941年の11月の下旬にワシントンに知らせる事なく46の戦 艦を北太平洋に待機させた。彼は又艦隊に真珠湾攻撃の予行演習さえさせた、まるで予知したかのように演習させた 場所は2週間後に山本司令長官が攻撃した所と同じであった。

 

 これを知ったホワイトハウスは演習を止めさせすべてのキメルの行動は日本を刺激するという怪しい口実で船舶を船 渠に戻すよう命じた。ワシントンはもし両国の艦船が洋上で遭遇し交戦状態に入った場合どちらが先に攻撃を仕掛け たが問題になると危惧した。

 

 しかしキメルはあきらめなかった。演習が止められた後航空母艦長のウィリアム ”ブル” ヘルシィは25隻の艦隊 を真珠湾を敵の戦闘機と潜水艦から守るとため待機させるという計画をたてた。計画は実行されることはなかった。 11月26日ワシントンの海軍の作戦計画長のスターク海軍大将は戦闘機を彼の空母を使ってウエーキ島とミッドウ エー島に運ぶよう要求したー益々真珠湾の空の防衛が縮小された。

 

 もし真珠湾が攻撃された場合、勿論この命令をだした責任は問われる。ワシントンはこれを承知してたようで事前に キメルとショートに不明確な”戦争警報”を11月27日に送っている。これは後にワシントンの言い訳として「彼等 は日本に対しての警戒を怠った」という主張に使われている。

 

 メッセージは実のところこう始まる:「この情報は戦争に関する重大なものである」しかし「日本海軍機動隊の兵隊 にあてがわれた装置の数は水陸両用による攻撃隊でフィリッピン、タイ、マレー半島、そしてボルネオに向かってい る」。これらのどの地点もハワイから5000マイル以上も離れている。真珠湾への危険性は全く感じられない。そ して次の言葉で閉められている、「ガム島とサモア島では怠業が行われているのでしかるべき処置をとるので繰り返 し市民にたいして警告をしないように」。2人の司令長官はワシントンに命令の遂行を報告した。ショート長官は島 の怠業に備えるために戦闘機を連結させた(これは怠業を実行し難いが標的の的に成りやすい)。キメルは戦闘機と 潜水艦の監視を厳しくした。ワシントンは彼等の戦争警報に対する準備が不十分かどうかについては一言もなかっ  た。翌日マーシャル元帥の助手が

 ショートに警告を送る、「怠業に対して装置、建物、関連物、そして官員、従業員が混乱を狙ったプロパガンダに惑 わされないように、又、人の活動をスパイ行為の誘導から守るように」。

 

 これらの命令は日本の攻撃まで守られた。パープル暗号を使い東京は最後通牒をワシントンの日本大使館に送った。 それは12月7日の日曜日に国務長官に手渡された。電文は国交を断絶し実質上の宣戦布告であった。

 12月6日には防衛省と海軍省では既に14頁の内の13頁を解読していた。最後の頁はまだ受け取っていないが怒 りを込めた文章から意図は十分に理解できた。その日遅くレスターシュルツ中尉が解読文をルーズベルト大統領に届 けたらシュルツはFDRが即近のハリーホプキンスに「これは戦争だ」と言っているのを聞いた。

 

 その後の真珠湾攻撃の尋問で陸軍参謀長のマーシャル元帥と海軍参謀長のスターク海軍大将は12月6日の夕方の所 在を憶えていなかった。マーシャル元帥は写真器といわれる記憶力で有名だったが。

 しかし海軍長官のフランクノックスの友達のジェームススタークマンはノックスが彼に六日の夕方にFDRが高官だけ の会議をホワイトハウスで行ったと証言した。ノックス、マーシャル、スタークそして防衛長官のスチィムソンが出 席していた。戦争勃発が間近にそのような会議を開くのは当然だ。その日の夕方海軍省はスチィムソンから太平洋上のすべての船舶の位置を報告する要求を受けた。

 

 12月7日の朝、最後の部分の日本からの長い電文を米国政府は解読し終わった。東京は2つの手順を大使に要求し ていた。最初の手順、”非常に重要”と記されて最後通牒を午後の1時に渡す事。2番目の手順は

 最後の命令はこのメッセージを受けた後暗号解読機を破壊すること。この情報の意図するところは海軍は明確に理解 した。日本は今迄にも攻撃と国交断絶を同時にやることで知られていた。日曜日にメッセージを送配することは稀で あったーしかしながら警戒が低いU.S軍関係者を探した;ワシントンの午後1時はハワイでは夜が明けたばかりであ る。

 

 スターク海軍大将が9時25分に出勤した。彼にメッセージが渡され最後通牒の告知の時間に注目した。一人の下士 官がこれはもしかしたらハワイへの攻撃ではと指摘した。他の一人がキメル長官に知らさなければと。

 しかしスタークはそれを断り午前中何もしなかった。数年後に彼は真珠湾に関してずっと上からの命令を受けていた ので後悔することはないと新聞記者に答えている。海軍の司令長官より上の権威者は1人だけ:ルーズベルト

 

 防衛省では電文14頁分が解読されていた。陸軍極東部長のラファスブラトン大佐はメーッセージの重要さに気づい た。機密情報部長はマーシャル長官が来る迄は何も出来ないと言った。ブラトンはマーシャルの家に電話をかけたが マーシャルは乗馬に出かけてると何回も同じ答えだった。まさに長い乗馬だった。遂にマーシャルが電話に出た時ブ ラトンは緊急事態だと告げた。マーシャルは防衛省に出向くと伝えた。マーシャル元帥は車で10分で来れるところ を75分間かかった。かれが来たのは午前11時25分ー国が戦争寸前の状態にしては極端に遅い。彼は日本からの メーッセージを食い入るよに見つめ最後通牒送配の時間に注目した。部屋に居るすべての士官はこれは東海岸時間の 午後一時に太平洋側に日本軍の攻撃が始まるという事で同意した。元帥はとうとうハワイに知らせる事に同意したが その時間は刻々と迫っている。

 

 マーシャル元帥は机の電話をとりあげて環太平洋ラインを使って真珠湾へ連絡を取ればいいだけの事だった。この簡 単な行動をとるだけで攻撃は避けられたか、少なくとも男達を迎撃体制につかせられた。しかし元帥は連絡文を

 書き始めた。文を暗号化した後ワシントンのウエストユニオンの事務所へ送電した。それはサンフランシスコへ送ら れた。サンフランシスコから商用RCAラジオを通してホノルルへ送られた。それをショート司令長官は攻撃の6時 間後に受け取った。2時間後にキメルに届いた。彼等がどのような気持ちで読んだことか想像できるだろう。

 

 マジック暗号解読機や他機関から機密情報が攻撃の前月から集められていたにも関わらず、マーシャル元帥はハワイ に警告をすることはなかった。史実研究者はこれらの隠された証拠を無視してマーシャル元帥はハワイを救おうとし たが既に遅かったと解釈している。同様にFDRは最後の平和の願いをこめた手紙を天皇裕仁に送ったとも。手紙は1 週間前に書かれたが12月6日の夕方に送られた。手紙は日本大使のグルーに送られたが彼は12月8日以前には天 皇へのお目見えがかなわなかった。だからFDRの手紙が戦争勃発を防げる事はなかった、しかし後世代の人達、   FDRも含めて「戦争を防ぐ努力は出来る限り行った」と。

 

 ロバート査問委員会、ルーズベルトとマーシャル元帥の仲間で構成された、は日本の真珠湾攻撃の査問を行った。委 員会は明白にワシントンに責任はなく米国はキメルとショートの落度と怠慢の為不意打ちを受けたとの判断を下し  た。アメリカ国民のこの両人に対する怒りは東京に対する怒りにほぼ近かった。今日迄多くの人々はハワイの司令長 官が日本の真珠湾の被害を可能にさせたと信じている。

 

 ロバートスチィンネットの真珠湾攻撃の謀略の告発はしたけれど、FDRには同情的だ。彼の本でこう述べている「太 平洋戦争で戦った米国将兵として米国民から50年以上も隠されていた秘密を知った時は怒りにふるえた。しかし  ルーズベルト大統領が直面していたジレンマも理解できる。彼は他国の問題に関わりたくない米国国民に気づかせず 愛国心を奮い立たせ自由を守るための戦いに参加する道を見つけなければならなかった」。しかしこのような方法で 政府が行動することが許されるなら、政府は危険で滑りやすい坂を歩くように専制政治へと向かっていくだろうとい うのが私達の意見だ。しかしながらスチィンネットのFDRの行動に関する暴露は非常に興味深い。

 

 この記事は最初に2001年の7月1日に書かれたThe New American の”Pearl Houbour:The Fact Behind The Fiction”の記事を少し修正した。

 

 原文はこちらのリンクです、Here is the link to the article

Pearl Harbor: Hawaii Was Surprised; FDR Was Not